カテゴリー「万葉集と伊予(宇摩)」の11件の記事

2010年1月29日 (金)

贋物・犯罪社会の中国 偽札事件(500~600倍)、YouTube・Googleの海賊版

  中国は犯罪社会

 中国では誘拐が多い事を先に紹介した。今日は、偽札の報告をする。中国の報道によれば、昨年の偽札犯人は、5974人を逮捕し、日本円で、152億円の偽札を押収したと言う。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/china/350976/

 日本では年に数件小規模で起こるが、人口で10倍のチナ(China)では、人口比で、500~600倍の犯罪率である。これがチナの現実である。

 しかも、これは、捕まった数字であり、実態はどれほどある事か、普通の人の被害がどれほどあるか、被害に合うと、人々はどう考えるのか、日本人には想像を超えて不安しか起こらない。

  中国の贋物1

 YouTubeの贋物が出ている。1日、30万件のアクセスがあると言う。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/china/350994/

 YouTubeの撤退に対応した、チナ政府の嫌がらせの可能性も含み、人々には朗報なのかどうか?

天安門事件に関する用語「tiananmen」で検索すると「データなし」の表示が現れる「ユーチューブCN(中国)」の画面(共同)

<いざ!。YouTubeCN、こぴー>

 写真に在る表示を見ると日本語版が使われているようだ。日本に居る中国人が作った事を思わせる。

 実際に撤退すると、この種の偽物は激増する事だろう。

  中国の贋物2

 Googleの贋物「ぐーじぇ」も出てる。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/china/351337/

 チナ社会では、直ぐに贋物が出る。だから、贋物にもランクがある。社会規範が嘘と自己中によって簡単に無視されるのだ。人間社会のルールは朝鮮人と共に欠如した社会である。

 民主党の「外国人参政権」は、この嘘と犯罪の民族を日本に呼ぶ事になる。1000万人も来ると、偽札事件だけでも、人口比で出すと、犯罪が50~60倍も増える事になる。

 こんな社会は子孫の為にお断りだ。民主党の外国人参政権、1000万人の移民、夫婦別姓、どれをとっても、日本が壊れる法案ばかりである。

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 私のブログの写真を集めたアルバムは、ココログの「建国と今」にあります。写真が見たい人はお手数ですが検索して見てください。

 * また、ブログやランキングに様々な妨害が続きます。これは、個人ではない不法侵入者です。

 私のPCに常時不法侵入する者(admin)が居る。この侵入は昼も夜も早朝も24時間体制で来ていて、個人で対応する事は不可能。つまり、巨大な不法侵入組織を持てる組織・団体の行動だろう。こんな犯罪組織を持てるのは、「創価学会」しかないと私は思う。

 この宗教は、暴力、集団(組織)ストーカーなど、池田大作王(自称)のために多くの犯罪を犯している犯罪者のオゥムの麻原と同じ思考で、日本を浸食中だ

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2008年8月 7日 (木)

万葉集と伊予(宇摩)10 宇摩郡『土居町誌』の橘の島。仙覚の橘は宇摩

  橘の島

 
私の手持ちの資料には、橘の島は以下のようにある。

 1315 橘の島(所在未詳。河内か?。一説に奈良県高市郡明日香村の橘)

橘の島にし、を(居)れば、川遠み、 さらさずぬひし、わが下衣(したごろも)

*橘の島の庄にいるので、川が遠いから、布を晒さず、縫ってしまった私の下着よ。

 
 現在の解説では、河内か、奈良・明日香村の橘説があるらしい。しかしこの歌も宇摩郡の可能性が高いのである。と言うのは、万葉集の解説の先駆者である、仙覚(後述)が、新居郡か宇摩郡だと言っている。

 新居郡は元は宇摩郡から出した(分離した)伝えられるから、どちらにしても「宇摩郡」と、言うことになる。これらを取り上げている『土居町誌』を参考にしてみよう。 

  『土居町誌』の「橘の島

 宇摩郡の『土居町誌』に、万葉集には、橘の島の歌が二つあると書いている。一つは良く知られる歌だ。しかし、二つ目の方は、万葉集の私の資料では出てこない。しかし、あるのだろう。

 この本によると、仙覚は、この歌の「橘の島」を、新居郡の氷見八幡山依り橘郷か、宇摩郡上野村の内の橘島だとしている。仙覚はこの歌を、伊予で詠んだとしている、と、他の本にもあるようだ。

 上野の内に、「たちばな」の地名は存在したようで、ここは景勝の地であり、今は檜林だが、丘陵面に石積みが数段在って、一段分で1~2反の広さ。その面積一町歩の東北に川があり、今も清水を汲める。

 そこに、半地下式の穴居跡が残っているという。竪穴住居といえば、オオクニヌシが火を付けられた時に逃げ込んだ住居である。確定は出来ないが、大いに想像をたくましく出来る事実である。なお、この地は、「大川」と言うらしい。

 布をさらせないほどの小川を「大川」と呼んだとは思えない。この大は、川では無く、「王側(王の側)」が訛ったものではないだろうか。

 さて、二首だが、以下のようにある。

  橘の 島にしをれば 川とおみ さらさでぬひし 我が下衣

  老の波 昔にまたも かえるやと 寄りて汀に 橘の島

 *老いの波が重なって(尋ねて来てた、ふと、川を見て、もしか)昔に返れるかと、汀に寄ってみた。橘の島。

 上の状況から言えば、この島は、国生みなどで使われた領地の意味らしい。つまり、橘に、二人用の土地が与えられて、これを「シマ」と呼び、この地の開墾を行ったのではないだろうか。

 ここで二人は、数年かけて、高天原(スサノオ)の指導を受けながら、田んぼを作る実習を行ったものだろう。

 また、この地から、入野川は4キロほど離れているだろう。遠くにあるので、サラサズに作った衣にも、矛盾は無い。また、最初の新婚時代を過した、入野の地を、思い出しては良く見ていたのであろう。
 
 この二首は同じ人物であろう。長い年月の後に、若い時の思い出の地(橘の島)にきて、昔を懐かしむ心が動いた歌である。この歌も、現在の人にも通じる心を歌っていると思う。

 以上のことから、この歌は、大国主の可能性が高い。

  仙覚抜粋

 仙覚は1247年に、万葉集の校合を完了し、『寛元本万葉集』を出す。
 1253年には、無点歌の152首に新点を施し、後嵯峨上皇に奏上。
 『仙覚奏覧状』。このほか、万葉集の書が残る。
 1269年に、仙覚『万葉集注釈』(「仙覚抄」ともいう)が出来る。
   *選釈だが、万葉集注釈の最初の優れた仕事である。

  オウのウミ

  「老いの波」を調べていて、「オウのウミ」が数首有った。オウは島根県に比定されているが、オウは老いる意味も有ろう。橘の島に行ったなら、海にも行ったと思われるので、この「オウノウミ」は、再検討が必要であろう。

 オヒはオフ、オウと同じであり、若い頃に居た場所に出世して戻ってくると、なお更昔が懐かしいであろう。だから、入野の歌も、老後に訪問した歌があるのではないかと思う。

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2008年7月27日 (日)

万葉集と伊予(宇摩)9 木梨軽太子(6) 允恭天皇と皇子と宇摩

  允恭天皇と皇子と宇摩地名

 木梨軽太子と宇摩郡が縁が深いことは書いた。どうも、太子だけでなく、允恭天皇も宇摩に長く来ていたのは無いかと、私は見ている。それは、古事記の記録に残っているのだ。

 允恭天皇は、大中津比売を娶り、木梨軽王(太子)、長田大朗女、境の黒日子王、、穴穂命、軽大郎女、亦名、衣通郎女、八瓜の白日子王、大長谷命、橘大郎女。酒見郎女。九柱穴穂命天下を知らす。大長谷命、天下を知らす。
 
 允恭天皇は風土記に伊予の湯に来た記録は無い。しかし、宇摩には長く来ていた気がするのだ。それは、皇子の名が、多く宇摩地名に一致する。木梨軽太子(初瀬)、長田(おさだ)、長谷(初瀬・泊瀬)、橘(たちばな)、八瓜(瓜尻)とある。

 このように、宇摩地名が入る皇子が多いのである。そして、先に書いたように、軽太子の東宮山古墳がある。だから、允恭天皇は宇摩郡で、氏姓を改めたのではないかと思っている。

 古事記では、「氏姓」の正すに当たって、味白梼(あまかし)の言八十禍津日の前に、探湯瓮(くかべ)を据えて行ったとある。宇摩説では「アマ=ウマ」だとしているから、「ウマ(宇摩)のカシワ(上・下村)」に据えたとなる。

 大后の妹(いろと)、田井中比売のご名代として、河部を定めたある。この田井中は、宇摩郡の中央部に、「中田井」がある。これらの多くの地名が允恭天皇の皇子や一致するのは、偶然ではありえないと思う。

 以上の事から、允恭天皇も宇摩に来たものと思う。そして、この事実が隠されたのは、何のために宇摩郡で行ったかと、後世に調べられる事を、恐れたものであろうと、私は考えている。

 太子は穴穂の御子と皇位を争うことになった時、太子の矢は銅で作ったから、「軽箭(かるや)」という。穴穂御子は、今時の矢で、これを「穴穂箭」と言う。このような説明がある。

 この事から、宇摩説として、太子は高天原時代に銅鐸・銅矛・銅剣などに使われた銅の矢を作ったことは、全国に残る高天原の支持者を集めようとしたのであり、穴穂御子は、現在の朝廷の大勢を集めたものと見ている。

 つまり、太子は過去の高天原の勢力の結集を計ったのであり、穴穂御子は、現在の権力者を集めたために、太子は思うほどの賛同を得なかった。先に書いたように。430年頃となれば、卑弥呼から200年で、少し、時間が経ち過ぎていたのである。

 太子は流される時に、「オホキミを 島にはぶらば 船余り、イ帰り来むぞ わがたたみ夢、、」と詠んでいる。「自分を島に流すと、船が増えて、帰ってくる、、、」言う意味である。その根拠は、允恭天皇と宇摩で過ごした体験によるものだろう。

 だから、宇摩に居を構えたが、参加してくる人はほとんど無く、地方の有力者も時の権力者の組織に組み込まれていて居たのであろう。こうして、予想に反して集まらず長引いた時に詠んだ歌が衣通王の歌である。

 太子は高天原の地に来て、多くの人々が慕う高天原の復興を呼びかけたのである。しかし、高天原は思想上の権威としては残っていたが、実利になると、人々は生活優先であったのだ。

 太子はこの事実に気づくと、愛しい妹を呼んで、共に障害を生きようと決めたのであろう。また、衣通王も、帰らないと知れば、都に居る必要も無くなった。宇摩に居た太子の元に下ったのである。

 これで、太子の父、允恭天皇と皇子と宇摩の関係を終わる。これらは、古事記の段階で、もう少し細かく書くつもりではいる。ここでは、概要だが、宇摩説の基本的な認識であり、木梨軽太子の関係として、ここに加えることにした。

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2008年7月24日 (木)

万葉集と伊予(宇摩)8 木梨軽太子(5) これまでのまとめ

  木梨軽太子と宇摩(まとめ)

 先に書いたように、万葉集と宇摩の代表的な関係を一応書いたので、今後は少し間を空けるので、これまで書いた外洋を思い出すままに、木梨軽太子を主にしてまとめておこうと思う。

  万葉集と宇摩

 万葉集と古事記に残る木梨軽太子の歌は、宇摩平野中央部の、謎の造形が残る狭い部分であり、ここに立つと、写真で見るとおり、初瀬の山、初瀬の川があり、山に立てた幡など様子が偲ばれるし、ここに立てた理由も分る。

 それは、遠い都から、太子の元へ船で来ている恋する衣通王の目印にしたのである事が良く分る。この歌は「万葉集事典」によると、西暦、430年頃の歌で、万葉集では、二番に古い歌であった。

  万葉集の2番の国見の歌

 万葉集の2番は舒明天皇が「国見の歌」で、詠んだのは、641年とされる。この山は奈良の香具山とされるが、ここには海が無いし、カモメも居ない。歌の内容から、宇摩郡の加賀山(カガビコの山、カグツチ)で詠んだのである。

 この加賀山で写した写真のとおり、東西と南が山であり、山ばかり(群山)だが、北の向くと、燧灘の青い海が見え、遠くには中国地方も見える。ここなら、カモメが舞い上り、舞い降りる姿が見終える。つまり、今でも歌に一致している。

 また、加賀山から燧灘を見れば、中国地方がほぼ直線で、四国側が半円を描くので、トンボのトナメ(交尾)の形に日本が見える。つまり、アキツ島は、宇摩の加賀山から見た日本なのである

 オオクニヌシと入野

 一茶が「はるばる訪ね入野」は、故事が「大国主」だと、歌の内容と、地名の一致から解いた。スサノオが放った鳴鏑の矢は、鏑先に向かっていた。大国主はから野に入った。二つの地名が故事を残す。

 入野の歌から、大国主は宇摩平野の西部で新婚生活を送ったことが判った。そして、妻を色々と思っていたことも、。これまでの解明より、宇摩説の解明の方が、言葉に合っていて適切である。鞘など、酷いものだった。

  軽太子と東宮山古墳

 宇摩郡には軽太子の参考陵墓、東宮山古墳がある。この事実から言えば、太子は古事記の記録である、「伊予に流す」が、史実である。この古墳は「宮内庁の参考陵墓」のために、今は山頂まで誰でも上がることが出来る。

 ここから、全国初の「歩揺(ホヨウ)付の金銅製冠」が出て、宮内庁に保管されている。つまり、宇摩は、初瀬の地名と古墳によって、判明する「こもりくの山・川」が、より現実的に理解で来るのだ。

  斎明天皇の陵墓伝承(村山神社宝塚)

 前回、「ニキタツに 船乗りせむと 月待てば、潮もかないひぬ、、」の状況が判る写真を載せておいた。そして、斎明天皇は、宇摩で崩御されたと、宇摩では伝承する。正式には、 宇摩は出てこないが、正式の場所にこれらの伝承は無い。

 正式の発表では、天(宇摩)を隠したい朝廷として、宇摩を消すのに細工があると見てよいだろう。斎明天皇は、最初から謎の記録がある。これは、先に概略を書いているが、謎の部分は、神輿太鼓(太鼓台)だと見ればよく判る。

 現在の宇摩郡は、全国のどこにでもある田舎の風景である。しかし、流された木梨軽太子の陵墓、斎明天皇の陵墓など、万葉集だけでなく、記紀でも、宇摩は異常な状況にあり、宇摩説の補足には有り余るのである。

  万葉集と伊予(宇摩)の今後

 駆け足だが、以上のように、万葉集でも宇摩の特異性が判る。万葉集の宇摩関係の歌はまだあるのだが、余り、時間をかけると、古事記の方が止まってしまうので、現在のように、続けて、載せることは無くなる。

 万葉集の初めての解説書を書いた、「仙覚」は、「橘の島は宇摩郡だ」としている。また、伊予の高嶺は、宇摩郡からは見えないので、宇摩で詠んだ「伊予の高嶺」は、豊受山であろう。

 宇摩の地名は、古事記講座の最初から紹介しているように多い。豊受大神の、「豊受山」と、江之元、津根など、高天原時代の地名も宇摩郡には多いのだ。いずれ、宇摩説は古代史に、本居宣長以来の革命を起こすであろう。

  宇摩説の今後

 以上のように、現在まで古代史で無視されてきた宇摩郡は、「宇摩志阿斯可備比古遅(うましあしかびひこぢ)の神の居住地であり、葦などに比定する、現在の解釈とは根本的に差がある。

 宇摩説は古事記を合理的・科学的・歴史的に解いて、その他の資料と整合するのである。誰かに導かれた感じはするが、自分ながら、すごい説が生まれたと思っている。

 そして、日本の建国、思考、文化などの始まりも、古事記の革命解釈の宇摩説によって、塗り換わるのである。これで、本当の日本古代が判明する。この周知の日が早い事を、願うのは、現在の日本がバラバラで、纏まらないからである。

 日本は世界に誇る独自の文化を持ち、世界一長い歴史を持つ、天皇家がある。これらの起こりとを知って、継承し、日本の国を発展させたいものである。建国以来の歴史が共通認識されると、日本は再び日が昇る

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2008年7月23日 (水)

万葉集と伊予(宇摩)7 額田王「ニキタツに 船乗りせむと、、」

  ニキタツについて

 教科書などでも取り上げるこの有名な額田王(おおきみ)の歌にある「ニキタツ」は現在の解釈では、松山の浜辺だとされている。しかし、宇摩説では、「宇摩の浜辺」だとしている。

 神武天皇を助けた、ニギハヤヒの子で、物部の祖、ウマシマヂの子に、ウマニギタの命が居る。この名が、宇摩のニギタであり、宇摩に在ったことを示している。そして、宇摩のニキタの主を名乗れば、人々に存在が知れ渡ったことが判る。

 このウマシマヂとウマニギタの二人の名は、ウマと言う言葉に権威があった事を示す名である。宇摩説では、「天(アマ)=宇摩(ウマ)」としているから、宇摩を名乗れば、アマに関係すると、当時の人々には判ったのである。

  額田王の歌と現在の説明

 舒明天皇・皇后は、九年十二月に伊予の湯に行幸された。
後に、皇后が即位されて、七年正月に、筑紫に向かう途中、伊予のニキタツの岩湯(豪語温泉)の離宮に船泊まりした。
 天皇は、父君を懐かしく思われて作られたと言う。(斉明天皇御製。額田王の歌は、他に四首あると言う)。

  万葉集、 額田王の歌<斉明天皇に同行>舒明天皇に?
 ニキタツに 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

ニキタツで船に乗ろうと月の出を待っていると、円かな月が出て、潮も満ちて調度良くなった。さあ、漕ぎ出そう。

<宇摩のニキタ・津で、船に乗ろうと、月を待っていると、潮も満ち来て、(岸から乗れるようになった)、さぁー、今のこの間に乗って、漕ぎ出そう>




 岸上から写した写真だが、数百メートル向うに、やっと、海が見えるが、手前の船は岸に繋いでいる。潮が満って来ると、ここは海なのだ。



 このムカデのようなものは、土管である。飛び出したところが継ぎ手であり、この長さが予想されよう。
 この時はまだ、海が見えるが、船の写真のように、時間が経つと海が遠くへ離れて行くのだ。岸まで潮が来た時は嬉しかった事だろう。




 海岸に繋いである船を見れば判るように、潮が満てば、岸から船に乗れる。しかし、船の先に見える砂浜は、数百メートルも先にしか海が見えない。

 つまり、月を待っている間に、潮が満ちて、岸から船に乗れるようになった。「さあ、今の内に早く乗り、漕ぎ出そう」。この歌の様子は、この場所に立たないと、その気持ちは判らないものだ。

 つまり、宇摩の浜の八日市(ようかいち)の浜は遠浅で、岸に立てば、潮が適わないと、数百メートルもの砂浜を歩くことになる。これが、歩かずに済んだ様子を歌ったものである。

 岸から見渡せば砂浜ばかりになる八日市、ハマグリ、アサリ貝の名産地。余りに、海から浜辺(岸)までが遠いので、潮干狩りで取った多くの貝の内、一部を途中で捨てられる。だから、あちらこちらに貝の山ができる。

 宇摩説で、この歌の現場とする浜は、如何であろう?

  ニキタツの浜のアルバム

 ニキタツの海と関川(入野川と合流)の写真6枚をココログのアルバムに作って置いた。これを見ると、歌の内容が、良く判る。また、ここに流れてくる関川の河口から上流の写真も加えてある。
http://kabu9uma9.cocolog-nifty.com/

 「ニキタツの浜と関川」に入れた上流には、先の入野川の山と、合流した関川の大きな川床が写っている。この川は川幅が広いので、普通の時は、川の一部にしか水が流れてない。

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2008年7月22日 (火)

万葉集と伊予(宇摩)6 木梨軽太子(4) 衣通王の歌で知る

  衣通王の様子

 先に、初瀬の山や川の関係で逆になったが、木梨軽太子が衣通王の到来の待ち受けの様子を書いた。この衣通王は、どのような状況であったのか、古事記と万葉集から拾い出して見よう。

 先に書いたように、歌の内容と初瀬の様子から、古事記の太子が伊予に流されたと言うのが,史実であろう。そして、おほを・さををに、幡を立てて、目印にして、衣通王を待った様子、東宮山古墳などから、史実が明確だろう。

 この史実を日本書紀で変えたし、万葉集で一段と迷彩した。しかし、古事記が採り上げ無かった歌で、全国的に有名な歌もあった。そのために、これらは、読み人知らず(迷彩)にして、載せたものがある。

 私は古事記の神話が史実の中心で、日本書紀や万葉集は、迷路に導かれると判断して、二書はほとんど研究を進めて無かった。古事記を専門にやったおかげで、今は基本的状況が把握できたので、これらの本の内容が判る様になった。

  衣通王の歌

 古事記には、太子が留守になった後に、衣通王が詠んだ歌が、二首残されている。
下の古事記歌謡、87,88である。素人だから、<>内に簡単に解説する

    (古事記歌謡87
 夏草の あひね浜の 蠣貝(かきがひ)に 足踏ますな あかしてとほれ

<夏草茂る、会い寝の浜の牡蠣貝は足を切るから、踏まないように、良く確認して通ってネ>

   90(古事記歌謡88
 君が行き 日(け)長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 持つには待たじ

貴方が行って日数が長くなりました。お迎えに行こう。とても、お待ちしてはいられない。<旺文社文庫解釈>

<貴方が行って随分日が経ちました。もう、まてないので迎えに行きます。真っては居ません>

 この二種の順序が違うのか、87は明らかに逢瀬の歌である。しかも、都では不自然な浜辺である。だから、舒明天皇に同行して来て居た宇摩の浜辺の出来事なのか、または、迎えに行った、90(88)の後に起こった出来事かということになろう。

 また、万葉集では、古事記の87を採用してない。何故か?私は、この歌が宇摩に関係するためではないか?と、思われる。

 二つ採用で、一つは待っている時の衣通王の歌で無いとすれば、何故、二つにしないで、一つにしなかったのか?

 これは、衣通王が待っている間に詠んだ歌で、有名なものが二つあると知れ渡っていたためだろうと思う。その、もう一つの歌とは、以下の歌である。

  1992、夏の相聞
 隠りのみ 恋ふれば苦し 撫子の 花に咲き出よ 朝な朝な見む

人目を忍んでばかりいて、恋う焦がれているので辛い。撫子の花が咲くように思いを表したい。毎朝、毎朝会いましょう。(旺文社文庫)

<隠れの身(の方)を恋していて苦しい。撫子の花のように、(隠れの身=軽太子が)咲き出でよ。そうすれば、毎朝、毎朝、見られる。>

 万葉集の1992は、衣通王の歌とすれば、軽太子を待っている間に思ったことだとわかる。つまり、待つ身の間に思った事を歌にしている。しかし、この歌は権力者には不穏な内容であるために、古事記では没になった。

 しかし、知れ渡っていたので、万葉集では、別人、読み人知らずで、世間の認識を変えようとした。このようになる。

 この歌を、古事記の87にして、今の87を、89にすれば、

 流された人に恋をして、この人が咲き出せば、毎日会えるのに。

 もう、長い間待ったが、帰って来ない、迎えに行こう。

 待っていた軽太子と会って、宇摩の夏の浜辺で、再び逢瀬を楽しんだ。

このような順序になり、これが史実ではないかと思う。古事記・日本書紀・万葉集と、朝廷の迷彩が進んで、判らなくなっているが、まだまだ、調べれば、知られた歌が多かったように思う。

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2008年7月20日 (日)

万葉集と伊予(宇摩)5 木梨軽太子(3) 允恭天皇と斉明天皇と東宮山古墳

  初瀬橋(川)をアルバムに

 何とか、初瀬の川に架かる「初瀬橋」を見付けたので、ココログにアルバムにした。ブログの横になるアルバムで、行って下さい。
http://kabu9uma9.cocolog-nifty.com/

 これを作っていて、この橋の横の祠が多いことを思い出した。木梨軽太子に縁のある祠が有った可能性が高い。これは、後で調べ直すことにする。なお、初瀬の地名はあまり広くないので、軽太子の縁で呼ばれたものと思う。

  木梨軽太子の古墳(東宮山古墳)

 宇摩郡には、宮内庁の参考陵墓、東宮山古墳がある。この話は先にも書いたので、ここでは簡単に書くことにする。

 允恭天皇の長男で、今で言う皇太子であった。允恭天皇は先に紹介したように、風土記に有るとおり、伊予の湯に行幸した天皇の一人で、伊予に縁がある。私は、氏姓を改めるクカベは、宇摩郡でしたのではないかと思っている。

 太子の古墳は、宇摩平野では東の端の方に在る。また、この浜には、最初に降りた石と伝える伝承の石もある。そして、この南、1キロm程度のところに、古墳があるのだ。この古墳の写真は、ココログに、先の記事の時作ったものがある。http://kabu9uma9.cocolog-nifty.com/photos/tougusankohun/index.html

  允恭天皇と宇摩  

 古事記に有る「味白梼(あまかし)」とは、「宇摩・柏」で有ろうと思うのだ。つまり、高天原に来て神のみ前で誓わせたのである。そして、クカベを据えて、確かめた可能性が有ると思っている。

 古事記や日本書紀では、「味は、宇摩」とも読むのである。まだ、詳細に詰めてないが、伊予の湯に来た記録と、古事記のアマカシ(=ウマカシ)からも、可能性は非常に高いと思う。

 伊予の湯は、道後の他にも幾つも在った事が、記録に残る。実は、「宇摩郡にも在った」ことも、古記録にはある。土居町の名所であった、「誓いの松」なども、この候補であろう。この地名と共に温泉があったのだ。

 天智天皇の衣掛けの石は、少し離れるので、こちらにも温泉が在った可能性がある。この話の時までに、この寺や、「誓いの松」の残骸などの写真を探しておくことにしよう。

 宇摩郡に温泉があれば、「伊予の湯行幸」は、文字通りであり、実は宇摩に来たことになる。そして、道後の湯は迷彩に利用したといえる。

 私は允恭天皇と斉明天皇の行幸の時に詠まれた歌が、万葉集に時や人を変えて多くの載せられていると思っている。これらを解くと、以下のような事が明確になろう。

 本当に道後への旅の途中で、「潮待ち」で、数日過ごしたのか、逆に迷彩の道後が数日だったのか、これからの研究次第であろう。

  允恭天皇と軽太子と宇摩

 前々回、前回に示したように、皇太子、木梨軽太子は、宇摩に古墳を残す。駆け足だが、宇摩説の視点を書いておいた。これらの詳細調査、検討は後続の研究者に任せたいとも思う。

 現在の私は、神話部分を詳細に解いておきたいので、これが終わるれば、神武以後にも進めるが、允恭天皇の前後は、何故か、宇摩の地名が多いのである。無縁では有るまいと思っている。

 以上のようなことで、余り、この時代に飛んだ話を詳細にする時ではない。ただ、指針として、この時代の宇摩が、謎だということと、万葉集に宇摩の歌謡が、多いとぴう事実を書くに止めよう。

 今回は、軽太子の古墳、東宮山古墳の写真でも見て、思いに耽って頂ければ、いいと思うので、簡単だが、この辺で終わる。

 次回は、東宮山の遺物などの資料が出れば、取り上げたい。また、万葉集の、橘の島や、有名な、「、、船乗りせむと 月待てば、潮もかないぬ、、」のどちらかを取り上げたい。と言うのは、集めた資料が揃う物を取り上げる。

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2008年7月19日 (土)

万葉集と伊予(宇摩)4 木梨軽太子(2) コモリクの山と川(写真)

  こもりくの初瀬の山

 昨日、隠りくの 初瀬の川について、写真の話を書いたが、探して見ると、初瀬の山の写真が出てきた。これを見ていて、初瀬の山の歌には、大変役立つ事に気づいた。というのも、この写真を見れば、下手な解説は不要なのだ。

 以下の写真を見れば、明確だ。

 山脈の中央部にある、三角の峰が「高取山」で、法皇山脈の峰でも美しい。この左手前にあるのが、謎の造形が残る山で、先に途中の峰と書いた。尾根を右に見ると、豊受山がある。つまり、水波峰と豊受山の間にある山だ。

 下の写真は、先の写真で凹凸のある山の北から写した写真である。中央部が人物の首から上に見える。近寄ると、次の写真になる。

< 以後の写真は、豊受山が無いので、高取山を基準に見れば、判りよい。>

 造形は大きなのが四つ有り、左の物が一番手前に中心の造形、左側の凹んだ位置に、背負った矢(弓矢?)を思わせる造形になっている。この左端の造形は、盾であろう。

 つまり、この像は男性で、左側に矛を持ち、右側に弓矢を背負って、盾を持っているのだ。ある意味、この男性の正装だろう。

 同じ所を、やや西から撮ったもの。

  やや、東から撮った写真。

 この像は、これまで謎で、隣の山の新長谷寺から、仁王さんでも彫ったのかと思っていた。しかし、今回、この像の正体と思われる人物が判った。

 つまり、木梨軽太子である。冠や矛などが、東宮山古墳から出土している。したがって、完成の像だと、冠を付けていただろう。

 以上で、この謎の造形は終わる。

 この造形の西側の山に新長谷寺がある。この長谷寺の裏側(北側)には、巨大女性の顔がある。この写真では顔の一部が写る。

  初瀬の川の水源

 この二つの山は、高取山の両脇にある山である。右側の鉄塔の辺りをゴジャナル(方言、壊れる)と言う。この左下に、新長谷寺がある。この長谷寺の右側に女性を思わせる顔が残っている(これは、三島公園の上の女神像と関係する)。

 中央の谷が、初瀬川である。法皇山脈の高取山の雨や地下水を集めた川である。

 この山の左下の新長谷寺と比べると、中央部に残る女神の顔の大きさが判るだろう。この女性の額から上が無い。これが、ゴジャナルの語源の可能性が高い。伝承では、城や、神社か寺があった、などと言う。

 近寄ると、この鉄塔部が頂上のように見える。また、地名の壊れたのは頂上部の事か、隣の山の像の事か、また、ゴジャナルの下にある女性像の横顔の頭部が壊れたということか?

 この他、幾つかの写真を、例によって、ココログにアルバムにしておいた。最後の写真の東側にも、水鳥ほか、謎の造形がある。
http://kabu9uma9.cocolog-nifty.com/photos/hatuseyama/index.html

  歌は現場で良く判る

 この写真によって、こもりくの歌の、「おほを」、「さをを」の意味が良くわかる。写真1の法皇山脈と、手前の山のことである。つまり、木梨軽太子は、高取山を中心とした法皇山脈の尾根に幡を立て、手前の峰にも、幡を立てた。

 この行為は、船でやってくる、衣通王の目印にしたのである。また、他の部分で大事にしたいという気持ちも良く出ている。

 これで、「こもりくの はつせ」の歌は、概要を終わる。もちろん、川や橋の写真が出てくればアルバムにする。したら、ブログで知らせる予定である。

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2008年7月18日 (金)

万葉集と伊予(宇摩)3 木梨軽太子と宇摩(1) 古事記と万葉週の歌謡

  万葉集(木梨軽皇子)と宇摩3

 木梨軽太子の話は、「やさしい古事記講座」から言えば、ずっと後の話になる。しかし、万葉集と宇摩を連載にして、1~2だけで、中断するわけにも行かない。そこで、伊予との関係の概要を紹介する。

 木梨軽太子は允恭天皇の太子であった。天皇崩御の後、木梨軽太子は、同母妹にタワケて、百官の心が離れ、廃位して、伊予の湯に流された。この後、妹も後を追って伊予に下る。

 万葉集と古事記・日本書紀に、太子が流された時の歌がある。史学では、伊予の湯とあるので、道後温泉の松山とされるが、り、これも、宇摩郡に関係する。これを示す。しかも、東宮山古墳が残り、宮内庁の参考陵墓である。

 三箇所に残る歌は、比較すると、当時の朝廷の思惑が判明するのだが、これを書くのは簡単にはできない。そこで、今回は、宇摩で詠んだと思われる歌と、概要を書いて置く事にする。

  不思議な万葉集と宇摩の関係

 時代の判る万葉集の歌を時代別に調べると、軽太子の歌が、またも、二番目に古いのである。先に舒明天皇の歌が、2番だった。そして、軽太子の歌は、一番古い仁徳天皇の磐姫皇后の歌に次いで2番目になる

 これは偶然だろうか?

 「宇摩説は、高天原(=邪馬台国)の北四国(宇摩)説」である。この立場からすれば、「万葉集は高天原(宇摩)隠しに作られたのではないか?」とさえ思ってしまう。考えすぎであろうか?

 古事記は太子が伊予に流されて、妹(衣通姫)が後を追ってきた記述になっている。

 日本書紀では、太子は自殺(?)して、妹が伊予に流されたとする。

 万葉集では、柿元人麻呂が、初瀬の川などを読んで、おかしな内容の歌が追加されている。

  古事記に残る太子の歌

 こもりくの 初瀬の山の おおをには 幡張り立て 早をには 幡張り立て
 おおをにし なか定める 思い妻あはれ ツク弓の こやるこやりも
 あづさゆみ たてりたてりも のちもとりみる おもいつまあはれ

<先に、宇摩平野を概説したように、東西に長い宇摩平野は中央部の初瀬の辺りの幅が狭い。だから、初瀬に来て、自分が居る目印の幡を、頂上や、中腹の尾根に立てて目印にしたのだ。この歌も学者の解説と違うが、明らかに本人が宇摩初瀬で詠んだ歌である>

 このりくの 初瀬の川の 上つ瀬に 斎(イ)くいを打ち 下つ瀬に マくいを打ち
 イくいには 鏡を掛け マくいには 真玉を掛け 真玉なす 吾がもう妹
 鏡なす 吾がもう妹 ありと言はばこそ 家にも行かめ 国をも偲はめ

  万葉集の歌

3263,(相聞)
こもりくの 泊瀬の川の 上(かみ)つ瀬に 斎杭(いくひ)を打ち
下つ瀬に、真杭(まくひ)を打ち 斎杭には 鏡を掛け 真杭には 真玉を掛け
真玉なす わが思ふ妹(いも)も 鏡なす わが思ふ ありと言はばこそ 
国にも 家にも行かめ 誰(た)がゆえか行かむ

  ―古事記を検(かんが)ふるに、件(くだり)の歌は、木梨軽太子(ひつぎのみこ)の自ら死(みまか)りしし時に作るといえり―(万葉の解説)

 初瀬川の上の瀬に、斎杭を打ち、下つ瀬に真杭を打ち、斎杭には鏡を掛け、
真杭には真玉を掛けてまつりする。
 その真玉のように、私が大切に思う人も、
 その鏡のように、、私が大切に思う人も、
この世にあると、いうのであったなら、故郷にも、家にも行こうけれど
―誰のために帰ろう。帰りはしない。

  解説

 初瀬の川を比べると、最後が違う。
また、万葉集では、太子が自殺したと説明する。
また、柿本人麻呂の迷彩歌謡も多く収録されている。
宇摩に、人麻呂を祭神とする神社が幾つかある。長期滞在したのであろう。
これらが、当時の朝廷の意志である。

 軽太子だけを調べても、「古事記」が一級資料であることが判る。以後、権力者の都合に合わせて、改竄して行ったのである。したがって、書記を多用すると、朝廷の術にはまる。これが学者に多い。

 宇摩郡寒川松には、今も、初瀬川や、初瀬橋が残る。
初瀬端の写真があるのだが、出てくるかどうか?出てくれば、アルバムにしようと思う。

 次回は、軽太子の陵墓と伝承される「東宮山古墳」の概要の予定だ。

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2008年7月14日 (月)

万葉集と伊予(宇摩)2、万葉集の入野と旧宇摩郡入野村と一茶

  万葉集と一茶と宇摩郡入野村

 先に一茶が、宇摩郡土居町の入野で詠んだ、「はるばる尋ね 入野、、」の句について書いた。「やさしい古事記講座(155)]である。
http://kabu003himiko.iza.ne.jp/blog/entry/629554/

 一茶が「入野」に執着した句を詠んでいる。万葉集の入野の歌は三つあって下記の通り。その下に、(155)のコピーを入れる。

1、*1272(入野))、たちのしり さやに イリノに くずをひく、、
2、*2277(入野)、さおしかの いりののすすき はつおばな、、
3、*1191(入りの川=入野川) 妹が門 いで いりの川の せのはやみ

 以上のように、まったく、バラバラに残っているが、新婚の男が新妻を思って詠んだ歌で共通する。しかも、場所は、「イリノ(入野)」で共通する。これは、大国主の歌として結構有名であり、外せないので、名を消してばらして採用したものだろう。

 現在は、万葉集の「入野、入りの川」を全て、京都などに比定されている。しかし、本当は宇摩郡入野村で詠まれた歌である。これを語るのが一茶の句の意味だ。そして、日記に記録は無いが、先の舒明天皇の歌の地にも立ったと思われる。

  入野(京都市西京区大原野上羽町の入野神社か?)
1、*1272、施頭歌の1(二十四首)
太刀の尻鞘に、入野に葛引く、わぎも(我妹) 真袖もち着せてむとかも 夏草かるも

太刀の切っ先が鞘に入るではないが、入野の葛を引いている我妻よ、私に新しい着物を着せようと思ってか、夏草を刈っていることよ。

  宇摩説解説
 宇摩説の立場で学者の解説を読むと、大変に判り難い。そこで、見直してみると、どうも、違うようだ。私が読むと、太刀と、尻の理解が間違っていると思う。直すと、この歌は以下のようになる。

<(私が)立ちのシリ(後) サヤ(然や*1)に入野に葛を引く、わぎも(我妹) (私に)真袖を着せようとしているかも、イヤそうではなく、夏草を刈っているかも>

 意味は、「自分が家を後にした後の妻の様子」を詠んだもので、現在の解釈より、ずっと、すっきりしたと思う。これは、誰もが経験する新婚時代の男が妻の様子を思う状況が良く出ている句である。

  語義解説
 タチ(太刀)を、「立ち」、シリ(尻)は、「」にして、サヤ(鞘)は、「然や」に変えたのだが、本の解説よりすっきりしたと思う。

 家を出て妻の行動の予想をする。この歌の内容から、新婚であろうことが判る。つまり、スセリビメと、大国主の関係に一致している。こうなると、試練の間に、二人は夫婦として、宇摩郡で新婚生活を送っていた事が判るのである。

  語義
 *1 サヤニ
サヤには(清や、鞘、沙耶、然や、障る)などがある。
この内の「然や」であろうと思う。
サヤ 然や(そう、、か、いやそうではない)。(岩波古語辞典)

  入野
2、*2277、花に寄する歌(二十三首)
サオ鹿の、入野のススキ 初尾花 いつしか妹が 手を枕かむ

入野のススキの初尾花ではないが、何時になったら、あの子の手を枕に出来るのだろう。

  宇摩説解説
< この歌は、妻の手枕が何時出来るのだろう?いずれ、手枕をしよう、と言う意味であり、新婚でまだ、手枕の経験が無い。先の一首と同じ人物の詠んだ歌だ。つまり、大国主の歌であろう。>

  入りの川(入りの川)神社付近の川か?<*入野の川であろう>
3、*1191、旅にして作る歌(九十首)
妹が門イデ、入りの川の瀬を速み、吾(あ)が馬つまづく、家おもふらしも
(入りの川)神社付近の川か?<入野の川>

妻の家の門を出入りするではないが、入りの川の瀬が早いので、私の乗っている馬が躓いた。家の者が私を思っているために違いないことよ。

  宇摩説解説
< 妻の家を出て妻を思ってボンヤリしていたら、入野の川の瀬が早くて、馬が躓いた。馬も家を思うらしい>

 以上が、イリノの歌である。

 以上の3首は、万葉集にばらばらに入っているが、私は入野の共通点、詠み手が新婚の男手妻を思っているなど同一人物の同時期の歌だと思う。そして、この万葉の歌は、大国主に比定すれば、一番すっきりしていることが判る。

 これらの歌から、一茶が大国主の古跡を偲ばんと、「はるばる尋ねた入野」なのである。このように判ってくると、一茶が入野で誰を、どのように偲んだのかが、良く判るだろう。

 ここまでで、大国主が行った「根の国」とは、宇摩平野であったと確定しても良いだろう歴史は解けてくると、本当に面白い!

 一茶の句に、「忘れては、富士かとぞ思う 伊予の高嶺」があった気がする。「伊予の高嶺」も万葉集に残っていた記憶がある。これらを含めて、他にも多いので、原稿が上がり次第、乗せてゆく予定である。

 これで、1、万葉集2、舒明天皇の「国見の歌」と、加賀山の紹介をした。
      2、大国主らしい「新婚の入野の歌」について述べた。

 ここまでは最近の「やさしい古事記講座」の記事で、矢を探して入野の大国主に絡んでいた。そこで、入野の句を書いた。これを修正して、万葉集と伊予(宇摩)の2に残すことにした。

 大国主は、後の国譲りの物語で高御産巣日神から、「天日隅宮」を贈られる。この「天日隅宮」も、明治までは宇摩に残っていた。この宮が、「周り八間」の家だった話を書いた。なお、この名を持つ神社は「延喜式」には無い。

 この話も多いのだが、古事記が進んだ時に書くことにする。

 最後になったが、前回の(1)で、二枚目に乗せた写真で、水波峰(加賀山)と、豊受山と、石鎚山の関係が良く判る。この坪山(庄法寺山)の麓に、天日隅宮がある。これらについて、後に出てくるので、その時にも、見直して欲しい。

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